「シャンティ」はインドの言葉で「平安」を意味する。 「シャンティ」であるならばなにもいらない、完全な満足、そんな状態。普通に生活する中で、常にそうありたいものです。
アストラル・プロジェクション
2007年10月26日 (金) 00:25 * 編集
久しぶりにマイブログに来ました。自ら遠ざかっていた。見知らぬ更新があってびっくりしたが、一ヶ月更新されないブログに載るのだという。(今は消えているはず)

漫画ついでに次の本を紹介します。
『月の光』 (Beam comix)
marginal (著), 竹谷 州史 (著)

>時代を抉る鮮烈の体外離脱フィクション、完結!
>各書評で絶賛! 韓・仏・台・独と海外でも続々刊行決定の超話題>>作!
とのことです。
marginalとは狩撫麻礼のことです。カリブ海のボブ・マーレイをもじった?ペンネームの漫画原作者『ボーダー』で私の人生も狂いました。あちら側こちら側二元のまっただ中の世間の否定。青いです。
バブルがどういう時代だったか、この漫画を読むとよく分かります。バブルの時代にあってその時代を外側から眺めているからです。絵はたなか亜希夫、うまいです。

そうそう『月の光』です。
体外離脱を正面から取り上げたまんが。
この世(世間)になじめない、作者が境界上を生きるもの「ボーダー」から、現実を超える「体外離脱」へ。
どちらも結局は日常への回帰が真のテーマか。それは目的であり前提であり、物語の中ではそこへの帰還で終わる。そうなるための物語であり体験。これはそのままこの世に生まれてきたことの訳。
そんなに単純に言っていいのかとも思うが、パラレルな関係にある。

意識の進化と現在日本に生きる意味。バーチャルなリアリティーとおたく。
バーチャルなリアリティといえば、この世はリアルなのか?
体験はリアルなのか?
何がリアルか。

現実ではないリアルを知ったとき、この世のこの当たり前の世界の成立の不思議、奇跡に気づく。
生があっての死、死があっての生。
どちらがリアルなのか。
どちらがメインなのか。

今生きて在る。


テレプシコーラ
2007年07月31日 (火) 00:43 * 編集
山岸凉子の漫画『舞姫 テレプシコーラ』を読んだ。
第一部全十巻。

悲しいですね。
物語の中にすっと入っていける。
久々に物語の中に入ってしまえる快感を味わいました。
リアルではないのに、物語の中の登場人物に共感できる。そのような語りを生むことが出来る。すばらしい才能です。

人生は悲しく理不尽である。
そういえば韓国で人気ある若い女優さんが自ら命を絶ったニュースがあったな。何ヶ月前、もう一年以上前かな。
若くきれいで人気があって、それでも命を絶つ人は命を絶つ。
若人の死は痛い。老人の死は穏やかですけど・・

知らない人の死は感じることが少ない。架空の人物の死でも悲しい。
自らの身内の死は悲しい。身内でも悲しみがあまりわかない人もいる。
その人にどれだけ関われたか。


山岸凉子は『鬼』で自らの何かにあるふんぎりをつけたように感じる。
自らの暗い部分を作品として昇華しえた。
読んでない人には何も通じないですね。
そういえば『ガラスの仮面』は続いているのだろうか。
姉妹の物語はつらいね。萩尾望都の『半神』とか。
北島マヤと姫川亜由美は魂の姉妹か。
山岸凉子も一族の巫女として二人の少女を選ぶというお話がありましたね。
花咲耶姫(このはなさくやひめ)と神岩長姫(いわながひめ)も姉妹ですね。

なんか『テレプシコーラ』を読んでしんみりしたことを書き記しておきたかった。

未読の人には理解不能であったでしょうが、何か感じることがあった方は是非是非お読みください。お勧めです。
『のび太の新魔界大冒険』-2
2007年03月27日 (火) 06:03 * 編集
これは「ドニー・ダーコ」だな、と始まったときに思った。
空からドラえもんの石像がのび太の部屋に落ちてくる。
ドニー・ダーコ」は飛行機のエンジンが主人公の高校生の部屋に落ちてくる。そこからストーリーは始まり、テーマは時間だ。

のび太はもしもボックスを使い魔法の使える世界へと世界を変えてしまう。今生きる世界では何をやってもうまくいかないから。魔法を使えばうまくやれるのじゃないか。新たな世界へ行ったらどうか。魔法の世界は魔法の世界でやっぱり同じだ。何が同じか。魔法を使えるようになるにはそのためのスキルが必要で、学校でも魔法の使い方が教えられている。魔法を使う教育をうけていない科学の世から来たのび太はここでも劣等生だ。科学の論理と魔法の論理。魔法の世界では「科学なんて迷信よ」と言われてしまう。ちょうど科学と魔法の立ち位置が逆になるのだ。

魔界星が地球の征服をたくらんでいる。地球が滅亡してしまうかもしれない。地球滅亡の恐怖。それを防ぐためにのびた達は戦う。地球滅亡の恐怖は死の恐怖の延長された形の表現だ。子どもたちは深い深いテーマをのストーリーをすばらしいテンポで進んでいく映画の中で味わっていく。表面的な関心は映画の中で演じられるどうしようもないギャグ等に惹かれているように見えても。

魔界星、魔界大魔王はキリスト教的な悪魔の姿を借りている。
ウィキペディアによれば、この作品は1984年の『のび太の魔界大冒険』のリメイクと言うことだ。そしたらドニー・ダーコのぱくり(悪いいいかたスマソ)かと思ったら、逆にドニーダーコの方がぱくったのか。旧作はまだ観てないので何とも言いようがないが、まあいい。
いやそんなことが言いたいのではなかった。
この作品では魔界星と戦うのは、満月牧師とその娘の美夜子だ。世界が一つになり、その一つになった世界はキリスト教的価値観の元で一つになった。(アメリカによる世界)。そのような世界を滅ぼそうとするものもキリスト教的悪魔のイメージを借りるし、悪魔と戦う者は当然?牧師になる。そういう設定で不思議なく受け入れられる。

続く・・
『のび太の新魔界大冒険』
2007年03月25日 (日) 01:50 * 編集
を見てきた。
久しぶりの映画館。シネコンっていうのですか、すごいですね。
映画は見るものではなく体験するものになっていたのですね。
今更ながらにして知りました。
シートも快適、ドルビーサラウンド16chっていうのですか(てきとー)
音が前後左右から飛んできます。
1980年代シネセゾンでしたか、渋谷にある映画館が立派で観客のことをよく考えてつくってある、みたいなことを聞いたことがあったような気がしたが、それが今は普通に地方の方でもそうなっている。音響もすばらしく発達しているし。ホロホニックサウンドっていうのですか、リアルな音像を結ぶ技術、それがエンターテイメントの中で普通に使われているのかな?全然違うかもだけど、サラウンドはそこから多くをまなんでいるのではなかろうかと感じた。
非常口ランプも見えないから真っ暗。子供用に補助座布団、厚さが違う2種類がある。昔は気取った映画館は飲食禁止だったりしたように記憶しているが、そんなこともないし。そのような映画館をチェーン方式(でいいか?)で展開している。すごいですね。
 映画館で観る映画は「カンダハル」以来かな。
 とにかく刺激が強いな。テレビも日常ほとんど観ないから、すごい衝撃です。快適な空間で、まっくらで、体の感覚を忘れさせてくれる環境を設定する。目と耳がスクリーンに集中され意識だけの存在として映画に集中できる。
 映画館はバーチャル・リアリティ体験館になっていたのですね。
 ハリウッドで映画の文法が、マクドナルドのようにマニュアル化された。飽きさせないタイミングでストーリーの展開、音の挿入、光の使用・・etc
 意識は体のことを忘れて映画に没入できるようになっている。映画が復活したことはそこにあったのですね。って今更ながら感じました・・・。
生と死-2
2007年03月17日 (土) 00:40 * 編集
薄い皮一枚隔ててお腹の中にいるのに、出てきたら誕生、この世に来たことになる。
無だったところに新たな命ができるのだ。
エイリアンは怖い映画だったが、エイリアンではなく同じ種の命は母の胎内で育まれていくのだ、ほ乳類の場合は。
胎内で赤子は生命の進化を自ら辿っていく。昔、タイのアナトミー・ミュージアム(解剖博物館)で標本を見たことがある。数週間ごとのリアルのホルマリン漬けだ。細胞分裂を繰り返し、成長していく。
ある時点から、細胞はどの器官になるか決まってしまうという。そこからは不可逆の旅。
魚類、両生類・・
人はネコザメが進化した生き物だという。えら呼吸から肺呼吸への進化の道筋をネコザメでみることができるという。西原克成さんが言っていた。 『内臓が生みだす心』
この本経由で、『記憶する心臓─ある心臓移植患者の手記』を読んだ。
心肺移植手術とは、心臓と肺を一緒に移植する手術のことである。体がごっそり空洞になる。
そんな手術が現実に可能で、それで生きながらえる人がいるのだということは、素人には凄い驚きである。
その手術を受けた人の手記である。

この手記は心がどこに由来するのかということに大きな視点を与えている。
心は脳によって作られているのか、そうではないのか。
脳の死が人の死として受け入れられている。脳死のことだ。
脳死と判定されれば人の死として臓器の提供が可能になった。その結果として心肺移植手術も行われたのだが、この手記は心は脳に由来するのではないという。肺や心臓という内臓腸管系にあるという。
脳の中の心という命題が反証されている。
ドナー(心肺の持ち主)の心が、移植先の心にその存在を訴える。
この手記が本当ならば、脳死が人の死と言えなくなる。
現在の医学界では認められていないみたいだが。

心は、意識は脳にあるのか、無いのか。
意識は脳にのみあるのではないと言っている。
心の傾向を肉体の気質によって分類する方法があるが、それはあながち間違っていないのかも。
意識の主が脳でない、脳のみでないことは、生きている実感上わかりやすい。
そのような言い方は科学ではないのだが。
「我思う。故に我あり」ではないということだ。(ほんとにそうか?)

考える私と、全人格的な私存在としての私は違う。
私とは、「考える私が思う私。」「他人から見た私(はこうだろうと考える私が思っている)私」
「他人から見た私」この三つがある、と誰かが言ってなかったか。
私は関係の中に存在して、私という固定した実体はない。それにも関わらず、関係の中で実体があるかのごとき「私」ができる。それは考える私が考えてもなかなか変わらないものだ。
心が頭にないと言うとき、それは非常に納得できる。

私は人の数だけある。私と私は違うのだ。
それが私とあなた、他人だ。

他の存在、他人が自らの肉体の中で大きくなっていくのだ、母は。
あらためてすごいぞ。