「シャンティ」はインドの言葉で「平安」を意味する。 「シャンティ」であるならばなにもいらない、完全な満足、そんな状態。普通に生活する中で、常にそうありたいものです。
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■ 生と死-1
2007年03月14日 (水) 23:54 * 編集
キューブラ・ロスが生と死は連続していると言ったのは、意識の連続性を語ったものだった(はず)。
死んでも意識は無くならない。
死ねば無になるのではない。意識は残る。死後の世界があるのではない。意識は残り、肉体に伴わない在り方に変わるだけなのだ、と言うことだったと思う(うろ覚えだな~)

自らの死を体験した人はいない。体験できるのは他人の死だけだ。
死にかけて帰ってきた人ならいる。臨死体験者だ。けれども彼らも実際に死んだわけではない。だからそれをもって死後の世界や、意識の連続性を語るわけにはいかない。それにも関わらず意識の連続性は確信としてキューブラ・ロスの中にあった。

人は無から生まれる。最初は精子と卵子、結合して受精卵となる。それが人の元。生命の元。細胞分裂を繰り返し、肉としての存在になる。
母親の胎内で大きくなり、母のおなかは膨れあがる。

長男の出産には立ち合った。
病院へ駆けつけると、「立ち合いますか?」「はい」立ち合うことになった。
白衣を着て帽子を被り、マスクをする。
妻が出産の苦しみで深い深い呼吸を繰り返している。
はー はー はー はー 
こちらの呼吸もいつしかそれにシンクロしていたようだ。
マスクをしているので呼吸が苦しい。
生まれるときが近づいてくる。
妻の苦しみがこちらに伝わってくる。

よく出産に立ち合っただんなが貧血を起こしたとか言う話を聞くが、
立っているのが非常にきつい。出来ることならしゃがみ込みたいが、妻がこんなに苦しみがんばっているのにそんなことは出来ない。
ずっと前朝礼中に気分が非常に悪くなり目の前が真っ暗になったことがある。目を開けているのに何も見えないのだ。
「おくさんがんばって」
助産婦さんが言っている。
はー はー はー はー
文字にすると同じだが激しさを増している。
きつくて気分が悪いのを我慢していたら、いつしか目の前が真っ白になってしまった。周りの声は聞こえているが、立っているのが精一杯、
ただ妻の手を握って立っているだけ。
「はいがんばって」

生臭いニオイとともに初めての我が子が生まれてきた。


■ 会社の人の死
2007年03月13日 (火) 00:25 * 編集
今朝会社に行ったら、A君が寄ってきて、
「Bさんが交通事故で亡くなりました」と言った。
また冗談を言って、
「えっ、カゼでダウンしたの」
「交通事故で亡くなりました」
「ええ、ほんと、そんなひどい事故だったの。出てこれないくらい。
どのくらいひどいの」
「亡くなりました」
「本当に亡くなったの。冗談じゃなくて」
「冗談じゃなくて本当です」

なんか全然信じられなかった。
土曜日に会ったばかりだったから。
ここ数日なんか元気が無かったな。
定年後加勢に来ていたのだが。
書類を届けに毎日行っていた。以前は中身的にも関係あったので、
やりあったりしたこともあるな。
あまりにも突然で全然信じられない、と言うより死んだことをリアルに感じない。ただ休んでいるのと変わらない。

同じ敷地内で仕事しているとはいえ、離れた場所だと、普段は目にしないから自分の仕事をしている限りでは、いつもと変わりない。
いつもと変わらず時間は流れていく。まわりも変わらない。
昼から告別式だったので、出席する人は出かけている。

告別式に出るほどでもないが、香典はことづけた。
なんかすっきりしないね。
儀式の重要さを感じるな。
別れのけじめになるね。

普段は知り合いの親とか、関係者の葬儀ばかり。
知り合いでも長く会ってない人たちだったが、今回は一昨日会ったばかりの人。
今はもういない。
非常にあっけない。
「生と死は連続している」とは、晩年のキュブラ・ロスの言葉だったけかな。
意味合いは全然違うが、そうだな~と思う。

ずっと寂しそうな感じだったな。悩み事があるような・・・

ゆっくりお休み下さい。

■ ネット断ち
2006年12月17日 (日) 13:05 * 編集
出張している。
久しぶりに家に帰ってきた。
また出かけて、今度は年末まで帰ってこれない。
まるまる一週間、きれいにネット断ちになってしまっていた。

朝6:30~夜1:00頃まで、メシとフロ以外はずっと仕事。
ちょっと一段落したのだが・・・
世の経営者の方々はそんな感じなんだろうが、被雇用者としては・・疲れた。というより、疲れに対し麻痺してくる。
これが日常になったら過労死になってしまったりするのだろうな~、と思いました。そういうふうに働いている人たちも多くいるのでしょうね。

教育基本法が改正されたのですか。
非常に大切なことなのでしょうが全然知らない。
■ 出雲
2006年12月05日 (火) 23:30 * 編集
物事が展開するときは、いっぺんに起こるものだな。
それは知っていたが、実際に起こる、起こり始めると目が回るような感覚に少し襲われる。
不安と、期待と、いろいろなものが入り交じった感じ。

なにか一つ物事が動けば、今までのものが吹き飛んでしまう。
全く別のものが展開を始める。
それが始まろうとしているような気がする。
というより始まっている。

全く個人的なことなので非常に抽象的なのだが、リアルが動いていることを感じる内面を記述するとこういう感じななる。

上の記述は少しおかしい。
リアル、内面。
二つに分けるのは便宜上だし、どちらが先というものでもない。
同時進行、それが、あるときは、出来事が先に現れるように感じるし、
内側、心が先に感じているように思うこともある。
けれどもあくまで同時進行。

懐かしくもあり、新鮮でもある、
不思議な感覚。

出雲の扉が開いたのかな・・
開きかけている。

そう思った。

■ アシュラム 2
2006年06月03日 (土) 04:23 * 編集
 最初にインドへ行ってから4年後、再びインドへ行きました。新婚旅行でインドへいたのです。1999年の正月です。
 私はサイババの帰依者でした。スリランカからマドラスに入り、パラーニに行き、バンガロールを経由して、サイババのアシュラムのあるプッタパルティに向かう途中でした。
 ある小さな町の中を通っていた時です。遠くに痩せて小柄な老人らしきサドゥーが歩いているのが見えました。ぴかぴかのサフラン色(オレンジ色)のサドゥー服を着ていました。バスが走るその車窓からちらと遠くに見えただけなので、ほんの一瞬のことでした。遠くなので顔も全然見えませんでした。でも、なぜか、「あっ、カリダスババだ」と思っていましまいました。なんかすごく似ていたのです。その感じが。バスは走り一瞬にしてその姿は見えなくなりました。ハンピもそこからはそう遠くはないところにあります。(バスで一日近くかかるでしょうが)。
 「まさかね」と思いましたが、懐かしい思いと、カリダスババを軽んじる気持ちがあったことへの罪悪感と、あのやさしい存在に触れた時の感触が思い出され、いろんな気持ちが入り交じったなんともいえない思いに満たされました。
 バスは乾いた田舎道を走っていきます。
 しばらく走っていると、突然、愛に包まれました。
 何故か知らないけど、強烈に愛を感じたのです。そしてその愛はシルディ・サイババであると感じたのでした。むせび泣きました。愛に包まれると人はただ泣くだけではなかろうか、と思います。甘ちょろいのかもしれませんが・・・・。
 シルディ・サイは痩せた老人の姿で知られています。カリダスババも少しだけ似ている。そんな関連があったのかもしれませんし、そうではなかったのかもしれません。どちらにしてもふと、愛に出会ったしまった。
 そのような思い出があります。
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