「シャンティ」はインドの言葉で「平安」を意味する。 「シャンティ」であるならばなにもいらない、完全な満足、そんな状態。普通に生活する中で、常にそうありたいものです。
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■ 『のび太の新魔界大冒険』-2
2007年03月27日 (火) 06:03 * 編集
これは「ドニー・ダーコ」だな、と始まったときに思った。
空からドラえもんの石像がのび太の部屋に落ちてくる。
ドニー・ダーコ」は飛行機のエンジンが主人公の高校生の部屋に落ちてくる。そこからストーリーは始まり、テーマは時間だ。

のび太はもしもボックスを使い魔法の使える世界へと世界を変えてしまう。今生きる世界では何をやってもうまくいかないから。魔法を使えばうまくやれるのじゃないか。新たな世界へ行ったらどうか。魔法の世界は魔法の世界でやっぱり同じだ。何が同じか。魔法を使えるようになるにはそのためのスキルが必要で、学校でも魔法の使い方が教えられている。魔法を使う教育をうけていない科学の世から来たのび太はここでも劣等生だ。科学の論理と魔法の論理。魔法の世界では「科学なんて迷信よ」と言われてしまう。ちょうど科学と魔法の立ち位置が逆になるのだ。

魔界星が地球の征服をたくらんでいる。地球が滅亡してしまうかもしれない。地球滅亡の恐怖。それを防ぐためにのびた達は戦う。地球滅亡の恐怖は死の恐怖の延長された形の表現だ。子どもたちは深い深いテーマをのストーリーをすばらしいテンポで進んでいく映画の中で味わっていく。表面的な関心は映画の中で演じられるどうしようもないギャグ等に惹かれているように見えても。

魔界星、魔界大魔王はキリスト教的な悪魔の姿を借りている。
ウィキペディアによれば、この作品は1984年の『のび太の魔界大冒険』のリメイクと言うことだ。そしたらドニー・ダーコのぱくり(悪いいいかたスマソ)かと思ったら、逆にドニーダーコの方がぱくったのか。旧作はまだ観てないので何とも言いようがないが、まあいい。
いやそんなことが言いたいのではなかった。
この作品では魔界星と戦うのは、満月牧師とその娘の美夜子だ。世界が一つになり、その一つになった世界はキリスト教的価値観の元で一つになった。(アメリカによる世界)。そのような世界を滅ぼそうとするものもキリスト教的悪魔のイメージを借りるし、悪魔と戦う者は当然?牧師になる。そういう設定で不思議なく受け入れられる。

続く・・
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