「シャンティ」はインドの言葉で「平安」を意味する。 「シャンティ」であるならばなにもいらない、完全な満足、そんな状態。普通に生活する中で、常にそうありたいものです。
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■ 「日本」はいつ日本になったのか。2
2005年10月30日 (日) 13:36 * 編集
「倭国」が「日本国」に変わったのは、どうやら天武天皇の時らしい。
 それ以前ことは、文献的には『日本書紀』『古事記』によるしかない。しかし、そこには、「倭国」が「日本国」になった理由は書かれてはいない。神武天皇から受け継がれた血統としてある大海人皇子が天武天皇となって、即位したと書かれている。血統上の断絶はないことになっているのだ。

ところで、天皇家の菩提寺、泉涌寺には代々の天皇の位牌が祭られているという。
古い順から、天智・光仁・桓武天皇と続く。天武以降称徳天皇まで8代は位牌がないという。
井沢元彦氏は『逆説の日本史』の中で、「天武が天智と「無縁」な人間である」と書いている。その件で調べていて見つけたのがこのページだ。
「納得できない『逆説の日本史』(補論)泉涌寺散策」

系図はこのページを参照して下さい。
http://www.ten-f.com/mitera-no-himitu.htm 
 天武天皇には大きな秘密がある。「倭国」が「日本国」になったのは、天武天皇の時代であり、そのために歴史書が編纂された。書物として記録する必要があるのは、進歩の結果としてあるのではなく、記録して残す必要があったからなのだ。

天武天皇は「諸氏所属の家々に持ち伝えている『帝記』と『本辞』は、正実に違い虚偽を加えているものが甚だ多いと聞くが、今その誤りを改めないと、幾年も経たないうちに、その趣旨は滅びてしまうだろう。帝記と本辞は、邦家の経緯(国家行政の根本組織)であり、王家の鴻基(天皇徳化の基本)であるから、それらを討究し撰録し、偽りを削り実を定めて後世に伝えようと思う。」と仰せられた。
        『古事記』序文 岩波文庫310p


「壬申の乱」を制した天武天皇は、天智天皇の系列から祭られることなく、天智天皇は「大化の改新」をもって蘇我氏を倒し新たな体制を作った。
「納得できない『逆説の日本史』(補論)泉涌寺散策」には次のように書かれている。
>斉明以前の天皇は1人も位牌がありません。
斉明天皇とは天智天皇の先代の天皇である。
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/history/nengouichiran.htm
聖徳太子は蘇我馬子と共に『天皇記』『国記』などの歴史書を編纂したといわれる。その書は蘇我氏滅亡の時に焼失したと言われる。『国記』は免れたとの説もあるようだが、いずれにせよ残ってはいない。
『日本書紀』以前を辿ることは非常に難しい。それ以外に頼るものは中国の歴史書などごくわずかしかないからだ。
 遣隋使を送ったのは、摂政聖徳太子と言われ、その時の天皇は女性の推古天皇だ。

「開皇二十(600)年、倭王あり、姓は阿毎(あめ)字(あざな)は多利思比弧(たりしひこ)、阿輩ケ弥(あわけみ)と号す。~
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」

『隋書 倭国伝』からの記述だが、600年のこの遣隋使の記録は『日本書紀』にはみえない。
書の送り主も、女姓ではなく男性である。このように非常に重要なことでさえ、つじつまが合わない。
日本国になってから以降の記録は、中国側と問題がないが、倭国の記録は中国側と『日本書紀』では食い違うことが多々ある。聖徳太子非実在説が出てくることも理由があることなのだ。
 遣隋使を送った王は「倭」王であり、「日本国」王ではないのである。

ここで再び、吉田孝氏の『日本の誕生』に戻ろう。

「日本」は訓読され、音読されてきたが、長期的にみると、ヤマトの訓読から、しだいにニッポン、ニホン
と音読されるようになった。このことは、「日本」が近代の国民国家の名へ移行することをスムーズにしたのではないだろうか。「日本」(ニッポン・ニホン)はヤマトの枠組みから、言葉のうえでは解放されたのである。
 ヤマトと訓読される「日本」は、何よりまず、天皇の王朝の名であった。
 206p


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