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「シャンティ」はインドの言葉で「平安」を意味する。
「シャンティ」であるならばなにもいらない、完全な満足、そんな状態。普通に生活する中で、常にそうありたいものです。
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上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書く事で広告が消せます。 2008年07月08日 (火) 23:29 * 編集
お通夜に行ってきました。父の友人の通夜です。
父が亡くなってもうすぐ9年になります。 その友人の方を私は知りませんでした。今もつきあいのある別の友人の方から連絡があってそれで行ってきたのでした。 御導師は浄土真宗本願寺派の方でした。40代くらいの若い方でしたが、声が大変素晴らしかったです。お経が非常に気持ちよかった。声に少しノイズが入っているというか、ひずみが入っているといおうか、よく通る響きのある声ですが、マイクを通じ流れてくる声が気持ちよい。60年代のポップス(モータウン)などのような、アフリカの楽器にはノイズを乗せるための仕組みがしてある、例えばコラのなかに蜘蛛の巣をいれてノイズを生むとか、なんかそういう系統の気持ちよさがあった、その声、お経には。 念入りに唱えられたので、気持ちよすぎてうつらうつらしてしまいそうになってしまう。 そういえば今回もそうだったのですが、焼香のときにお経を唱えないことが多いのですが、何故なんでしょうか。告別式の時は焼香の時にお経を唱えることが多いのですが、お通夜の時は唱えないことが多い。たまたまそのような時に当たっているのでしょうか。それとも宗派によって違うとかあるのでしょうか。 お経や祝詞は神様そのもの、仏様そのものである、きちんと唱えれば、と思っていますので、焼香の時の参列者の思いを神様仏様のところに導く、拠っては故人を導く標になると思いますので、できれば焼香の時もお経を唱えてもらう方がありがたい気がします。 式によって非常に痛い場合もあるので、その際は尚更お経が欲しいと思ったこともあります。 今回はしかしお経無しの焼香でしたが、気になりませんでした。既に唱えられたお経でそのようなバイブレーションで満たされていたのかもしれません。 お通夜が終わり帰る際に今回連絡をしてくれた方に挨拶して帰ろうとしました。 その横に同じく初老の方がおられてそちらに私のことを知らせていました。 全然気がつかなかったのですが、そちらも父の友人の方でした。9年前よりかなり老け込んでいて気づかなかったのですが、正面から顔を見たらすぐに分かりました。顔は知っているけれども名前は出てきません。ただその方は私の顔を見て、嬉しそうに「○○ちゃんね」と言ったのでした。それは非常な懐かしさと嬉しさ(来てくれたこと、会えたこと)が入り交じった呼びかけの言葉でした。その顔が本当に仏様のような顔で、嬉しさがダイレクトに伝わってきます。それはまさしく慈愛というしかない感情でした。それは多くの言葉によってつくられるものではなく、なんらかの策略(言葉が悪いですが)によってつくられるものではなく、純粋にその人が生きてきた軌跡が滲み出るただそれだけのものなのです。そのエッセンスに触れて人はありがたさを感じるのです。偽りようのないものがそこにはある。 久しぶりに慈愛に触れた。そう感じました。 スポンサーサイト
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