「シャンティ」はインドの言葉で「平安」を意味する。 「シャンティ」であるならばなにもいらない、完全な満足、そんな状態。普通に生活する中で、常にそうありたいものです。
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■ 生と死-2
2007年03月17日 (土) 00:40 * 編集
薄い皮一枚隔ててお腹の中にいるのに、出てきたら誕生、この世に来たことになる。
無だったところに新たな命ができるのだ。
エイリアンは怖い映画だったが、エイリアンではなく同じ種の命は母の胎内で育まれていくのだ、ほ乳類の場合は。
胎内で赤子は生命の進化を自ら辿っていく。昔、タイのアナトミー・ミュージアム(解剖博物館)で標本を見たことがある。数週間ごとのリアルのホルマリン漬けだ。細胞分裂を繰り返し、成長していく。
ある時点から、細胞はどの器官になるか決まってしまうという。そこからは不可逆の旅。
魚類、両生類・・
人はネコザメが進化した生き物だという。えら呼吸から肺呼吸への進化の道筋をネコザメでみることができるという。西原克成さんが言っていた。 『内臓が生みだす心』
この本経由で、『記憶する心臓─ある心臓移植患者の手記』を読んだ。
心肺移植手術とは、心臓と肺を一緒に移植する手術のことである。体がごっそり空洞になる。
そんな手術が現実に可能で、それで生きながらえる人がいるのだということは、素人には凄い驚きである。
その手術を受けた人の手記である。

この手記は心がどこに由来するのかということに大きな視点を与えている。
心は脳によって作られているのか、そうではないのか。
脳の死が人の死として受け入れられている。脳死のことだ。
脳死と判定されれば人の死として臓器の提供が可能になった。その結果として心肺移植手術も行われたのだが、この手記は心は脳に由来するのではないという。肺や心臓という内臓腸管系にあるという。
脳の中の心という命題が反証されている。
ドナー(心肺の持ち主)の心が、移植先の心にその存在を訴える。
この手記が本当ならば、脳死が人の死と言えなくなる。
現在の医学界では認められていないみたいだが。

心は、意識は脳にあるのか、無いのか。
意識は脳にのみあるのではないと言っている。
心の傾向を肉体の気質によって分類する方法があるが、それはあながち間違っていないのかも。
意識の主が脳でない、脳のみでないことは、生きている実感上わかりやすい。
そのような言い方は科学ではないのだが。
「我思う。故に我あり」ではないということだ。(ほんとにそうか?)

考える私と、全人格的な私存在としての私は違う。
私とは、「考える私が思う私。」「他人から見た私(はこうだろうと考える私が思っている)私」
「他人から見た私」この三つがある、と誰かが言ってなかったか。
私は関係の中に存在して、私という固定した実体はない。それにも関わらず、関係の中で実体があるかのごとき「私」ができる。それは考える私が考えてもなかなか変わらないものだ。
心が頭にないと言うとき、それは非常に納得できる。

私は人の数だけある。私と私は違うのだ。
それが私とあなた、他人だ。

他の存在、他人が自らの肉体の中で大きくなっていくのだ、母は。
あらためてすごいぞ。
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