「シャンティ」はインドの言葉で「平安」を意味する。 「シャンティ」であるならばなにもいらない、完全な満足、そんな状態。普通に生活する中で、常にそうありたいものです。
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■ iTune
2005年12月20日 (火) 01:21 * 編集
iTuneのシャッフル再生にすっかりはまってます。

こんな感じになります(^^)

http://matsuya.dyndns.tv/2ch/img-box/img20051220010410.jpg
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■ 天国のうた
2005年12月19日 (月) 01:27 * 編集
世界は闇だった。
暗がりに包まれていた。
黒、真っ黒な世界ではない。グレイのような、茶色のような、黄色が混ざったような黒ぽい色だった。

世界は一瞬にして変わった。
光に包まれた。乳白色の柔らかな光に包まれた。世界は一面光だった。まぶしくはなくただひたすら白かった。
それは神の世界だった。
白い光の中に人の姿をした神様が立っていたのではなかった。
この光がそのまま神様だった。
それは一瞬にして了解されたことだった。
光の世界に包まれた時、この光が神そのものであり、神の世界であり、全てが赦され、全てが救われていることが分かった。
ただひたすらありがたかった。私の全てが赦されていた。全てが受け入れられており、全てが赦されていた。そのことをただただ感じるのであった。
その感覚は強烈なありがたさを感じさせた。ありがたくてありがたくて泣いた。腹の底から泣いた。声を張り上げて泣いた。大音声で泣いた。涙は止まらず、ありがたいと思う気持ちは止まなかった。
自らの罪深さは全て見られていた。それにも関わらず、罰はなかった。
ただ赦されていた。赦されている自覚が、自らの罪深さをあぶり出し、申し訳ない気持ちが溢れてくる。しかし、それは全て赦されているのであった。
ただ泣いた。
光はただ私を包んでいる。何も言ったりはしない。
愛と赦しを与えてくれていた。
自らの罪深さを感じた。
しかしその罪深さは全て赦されていた。
赦しの慈愛の強烈さ、それはただただ愛であった。

みんなは赦されていた。全ては赦されていた。
全てはそのままで赦されていた。救われていた。
ありのままで完璧だった。
救われる者と救われない者がいるのではなかった。
善人と悪人がいるのではなかった。
殺す者と殺される者は同じであった。同じ土俵の上でゲームを演じているのであった。
全ては平等であった。
全てはここに来るためのものであった。
みんな同じ土俵の上でそれぞれの役割を演じていた。
それは勉強、ここに来るための勉強であった。
■ 大切なこと 2
2005年12月19日 (月) 00:14 * 編集
私が私であることに気付く時、私はもう出来上がっています。
この体を持ち、この心を持っています。既に私はあるのです。
私はこの体を選べません。私はこの心を選べません。私は親を選べません。
気付いた時にはこうなっているのです。
子どもを見ていると3歳くらいまでは動物です。親の助けが必ずいります。親がいなくては人間の赤ちゃんは大きくなれません。
3歳くらいになると、赤ちゃんは子どもになります。親の目は必要ですが、自分で自分のことができるようになって来ます。
それから幼稚園へ行き、小学校へ行き集団生活を送ります。中学校くらいで思春期を迎えます。私がこのような私であることに気付く時期です。非常におおざっぱに言っています。ずっと早くから私に気付く子もいれば、あまり私のことを意識しないまま大きくなっていく子もいるでしょう。どちらにしても私が私であることに気付くのは、ある違和感からではないでしょうか。何かが違うという思い、感触、なんらかの齟齬があるのです。だれしもそのような齟齬を感じる瞬間はあることでしょう。ただし健康であるならば、そのような齟齬は瞬間的なものであり、後を引かないものであります。反対に、齟齬が大きな人間、つねにそのような齟齬を意識している人たちもいます。
自らに対する齟齬と、他の人々に対する齟齬がおおきな人間は社会生活を営むのが困難です。困難な状況に陥った時人はその原因を探します。
「なぜ私は友達と仲良くなれないのか」
「何故私は苦しいのか」
私は他の人々と違っている、と感じます。周りのみんなは楽しそうにやっているではないか。
「何故私はこうあるのか」
「何故私は、この私なのか」
「何故私はこの体を持っているのか、なぜこの心を持っているのか」
回答のでない疑問がぐるぐるとループを描き心と頭の中を駆けめぐります。
そのような問いは、後悔の感情から発しています。暗い気持ちに落ち込んだのは、あの出来事が原因だ。あの時こうすれば良かったのではないか、なぜあのような反応をしてしまうのか。いつもそうだ。どこが悪いのか。その時我慢し抑えていた感情が溢れてきます。怒りや悲しみの感情です。
負の感情は負の感情を呼び込み、ループがとどまりません。

その中の幾人かはその原因を探る道を探します。心理学を学んだり、哲学を勉強したりします。そこに答があるように思うからです。
ある程度客観的に自分を眺められるようになると、そのような自分をコントロールする方法を覚えてきます。しかしあくまでも、コントロールされる自分は、既にそのように出来上がっている自分なのです
■ 大切なこと 1
2005年12月17日 (土) 01:17 * 編集
私は動物として非常に弱いと思います。
別にどこか具合が悪いところがあるわけじゃない。身体的に欠けているところがあるわけではありません。
しかし心は非常に欠けたところがあるように思えます。
自分で自分を信じることができない。好きになることができない。
それでも生きていくことはできます。
ただし、そのような人間にとって、生きていくことはそれだけで非常に苦しいものです。苦しい状態を慰めてくれるものに救いを求めます。私の場合はそれは、本と音楽でした。お酒の味を覚えてからはお酒が加わりました。人とうち解けることが困難で、ほとんどの人とは話が合いませんでした。私が安心して話ができる相手とは、自らを否定している人間でありました。(私から見てそう思える人間)今、そう思えると書きましたが、正確に言えばそれは思うものではなく、感じるものであります。自分を否定している人間は怖くないのです。自分を肯定している人間を、私は怖いのです。それはある種、動物的本能といっても良いと思います。
ここで最初の一文に戻ります。私は動物として非常に弱いと思います。
まず犬が怖いです。学生の頃奈良に遊びに行った時、鹿が怖かった。鹿せんべいを奪われてしまいます。アヒルに追いかけられたこともあります。アヒルに餌をやる振りをして遊んでいたら、アヒルが怒って追いかけてきたのです。

それは何故か。自分で自分のことを嫌っていたからです。これは今の視点からの言葉であります。当時としても、言葉として「自分のことを嫌ってはだめだ」とは知っていましたが、本当の意味合いは分かっていなかったのです。
自分を嫌いな人間は常に不安です。そして常に怒っています。自分が受け入れられてないからです。
怒りはその攻撃の矛先を求めます。必ずどこかに、外か内かに、もちろん両方であるのですが。
だからそのような人間は他と接することを好みません。他と接すると負けてしまうから。傷ついてしまうから。引きこもりです。(もちろんそうでない人もいるでしょうが)

人は結局自らが受け取ったものしか現すことができません。ある意味単純な物理の法則みたいなものです。他の人から受け取ったものしか人に与えることはできないのです。他の人で一番大きな存在は親です。人は親から生まれ、多くの人は親から育てられます。その親の行動パターンをほぼそのままコピーして自らの行動形式を作っていきます。
この間『毒になる親』という本を読みました。
内容は、乱暴にまとめると、世の中では『毒』としか言いようのない親がたくさんいて、そのような親に育てられた子どもは非常に苦労する。そしてそれは当たり前のことなのだ、というものでした。親から愛されない子どもはたくさんいます。そして愛されていないその行為こそが愛と勘違いし、愛と思いこみ、破滅的な道を歩んでいきます。
どうして暴力的な男にばかり惹かれてしまうのか、親がまさにそうだったからです。そのような傾向の男、そのような香りのする男に惹かれてしまうのです。子どもは親から理不尽な行為を受けても、それが理不尽であるとは思いません(どこかにそれが理不尽であると知っている部分はあるにしても)。自分が悪いと思ってしまうのです。親から振るわれた暴力はそのまま別の他者に向かうか、悪い自分へと向かってしまいます。だってそれは仕方ないのです。人は自らが受けたものしか、返すことができないからです。
生まれたばかりの鳥におもちゃの動く鳥を見せたら、おもちゃの鳥を親と思ってしまいます。
ああ、鳥はなんて単純なんでしょう。いえいえ、人間も同じです。愛ではない行為を愛と思ってしまうんですから。
そして刷り込まれたものは、一生をかけて修正をかけていくしかないのです。
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