「シャンティ」はインドの言葉で「平安」を意味する。 「シャンティ」であるならばなにもいらない、完全な満足、そんな状態。普通に生活する中で、常にそうありたいものです。
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■ 初詣 = ダルシャン
2009年01月04日 (日) 00:39 * 編集
あけましておめでとうございます。

ダルシャンとはインドの言葉で神あるいは聖者にまみえることを言います。聖者とは神様の代理、神の力がその方を通して現れる人のことですから力の源泉はあくまで神様です。元々は「視線の祝福」のことをダルシャンと言うそうです。私はもともとサイババの帰依者ですから、ダルシャンをサイババのところで知りました。サイババのところのダルシャンとは、サイババが朝夕ホールに出てくるのですが、その場時間のことを言っていました。インドの聖地でプージャをしてもらった時神官の方が「ダルシャン、ダルシャン」と言ってましたが、それは神の臨在を感じさせるかのようなプージャの後、いやプージャ終了後ではあったが、神様が強く感じられるその時に言われた言葉であったのでした。同じ時に「バクシーシ」と言って寄付を強要?されたのですが。

神様にまみえること、これは大きな祝福であり、それは大変な御利益を賜るものであります。だからこそインドの人々はダルシャンを求めるわけです。御利益とは物質的なものから、精神的なもの、色々あるでしょうが、よきものを求める気持ちに基づくものであります。

さて、初詣もその根底にはよきものを求める気持ちに基づくものであります。特別な信仰がないと答える人でも初詣には出かけます。初詣先の神社仏閣には神様仏様がおわします。初詣とは神様仏様に会いに出かけることでもあります。
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■ 慈愛
2008年07月08日 (火) 23:29 * 編集
お通夜に行ってきました。父の友人の通夜です。
父が亡くなってもうすぐ9年になります。
その友人の方を私は知りませんでした。今もつきあいのある別の友人の方から連絡があってそれで行ってきたのでした。

御導師は浄土真宗本願寺派の方でした。40代くらいの若い方でしたが、声が大変素晴らしかったです。お経が非常に気持ちよかった。声に少しノイズが入っているというか、ひずみが入っているといおうか、よく通る響きのある声ですが、マイクを通じ流れてくる声が気持ちよい。60年代のポップス(モータウン)などのような、アフリカの楽器にはノイズを乗せるための仕組みがしてある、例えばコラのなかに蜘蛛の巣をいれてノイズを生むとか、なんかそういう系統の気持ちよさがあった、その声、お経には。
念入りに唱えられたので、気持ちよすぎてうつらうつらしてしまいそうになってしまう。

そういえば今回もそうだったのですが、焼香のときにお経を唱えないことが多いのですが、何故なんでしょうか。告別式の時は焼香の時にお経を唱えることが多いのですが、お通夜の時は唱えないことが多い。たまたまそのような時に当たっているのでしょうか。それとも宗派によって違うとかあるのでしょうか。

お経や祝詞は神様そのもの、仏様そのものである、きちんと唱えれば、と思っていますので、焼香の時の参列者の思いを神様仏様のところに導く、拠っては故人を導く標になると思いますので、できれば焼香の時もお経を唱えてもらう方がありがたい気がします。

式によって非常に痛い場合もあるので、その際は尚更お経が欲しいと思ったこともあります。

今回はしかしお経無しの焼香でしたが、気になりませんでした。既に唱えられたお経でそのようなバイブレーションで満たされていたのかもしれません。

お通夜が終わり帰る際に今回連絡をしてくれた方に挨拶して帰ろうとしました。
その横に同じく初老の方がおられてそちらに私のことを知らせていました。
全然気がつかなかったのですが、そちらも父の友人の方でした。9年前よりかなり老け込んでいて気づかなかったのですが、正面から顔を見たらすぐに分かりました。顔は知っているけれども名前は出てきません。ただその方は私の顔を見て、嬉しそうに「○○ちゃんね」と言ったのでした。それは非常な懐かしさと嬉しさ(来てくれたこと、会えたこと)が入り交じった呼びかけの言葉でした。その顔が本当に仏様のような顔で、嬉しさがダイレクトに伝わってきます。それはまさしく慈愛というしかない感情でした。それは多くの言葉によってつくられるものではなく、なんらかの策略(言葉が悪いですが)によってつくられるものではなく、純粋にその人が生きてきた軌跡が滲み出るただそれだけのものなのです。そのエッセンスに触れて人はありがたさを感じるのです。偽りようのないものがそこにはある。

久しぶりに慈愛に触れた。そう感じました。
■ 『のび太の新魔界大冒険』-2
2007年03月27日 (火) 06:03 * 編集
これは「ドニー・ダーコ」だな、と始まったときに思った。
空からドラえもんの石像がのび太の部屋に落ちてくる。
ドニー・ダーコ」は飛行機のエンジンが主人公の高校生の部屋に落ちてくる。そこからストーリーは始まり、テーマは時間だ。

のび太はもしもボックスを使い魔法の使える世界へと世界を変えてしまう。今生きる世界では何をやってもうまくいかないから。魔法を使えばうまくやれるのじゃないか。新たな世界へ行ったらどうか。魔法の世界は魔法の世界でやっぱり同じだ。何が同じか。魔法を使えるようになるにはそのためのスキルが必要で、学校でも魔法の使い方が教えられている。魔法を使う教育をうけていない科学の世から来たのび太はここでも劣等生だ。科学の論理と魔法の論理。魔法の世界では「科学なんて迷信よ」と言われてしまう。ちょうど科学と魔法の立ち位置が逆になるのだ。

魔界星が地球の征服をたくらんでいる。地球が滅亡してしまうかもしれない。地球滅亡の恐怖。それを防ぐためにのびた達は戦う。地球滅亡の恐怖は死の恐怖の延長された形の表現だ。子どもたちは深い深いテーマをのストーリーをすばらしいテンポで進んでいく映画の中で味わっていく。表面的な関心は映画の中で演じられるどうしようもないギャグ等に惹かれているように見えても。

魔界星、魔界大魔王はキリスト教的な悪魔の姿を借りている。
ウィキペディアによれば、この作品は1984年の『のび太の魔界大冒険』のリメイクと言うことだ。そしたらドニー・ダーコのぱくり(悪いいいかたスマソ)かと思ったら、逆にドニーダーコの方がぱくったのか。旧作はまだ観てないので何とも言いようがないが、まあいい。
いやそんなことが言いたいのではなかった。
この作品では魔界星と戦うのは、満月牧師とその娘の美夜子だ。世界が一つになり、その一つになった世界はキリスト教的価値観の元で一つになった。(アメリカによる世界)。そのような世界を滅ぼそうとするものもキリスト教的悪魔のイメージを借りるし、悪魔と戦う者は当然?牧師になる。そういう設定で不思議なく受け入れられる。

続く・・
■ 『のび太の新魔界大冒険』
2007年03月25日 (日) 01:50 * 編集
を見てきた。
久しぶりの映画館。シネコンっていうのですか、すごいですね。
映画は見るものではなく体験するものになっていたのですね。
今更ながらにして知りました。
シートも快適、ドルビーサラウンド16chっていうのですか(てきとー)
音が前後左右から飛んできます。
1980年代シネセゾンでしたか、渋谷にある映画館が立派で観客のことをよく考えてつくってある、みたいなことを聞いたことがあったような気がしたが、それが今は普通に地方の方でもそうなっている。音響もすばらしく発達しているし。ホロホニックサウンドっていうのですか、リアルな音像を結ぶ技術、それがエンターテイメントの中で普通に使われているのかな?全然違うかもだけど、サラウンドはそこから多くをまなんでいるのではなかろうかと感じた。
非常口ランプも見えないから真っ暗。子供用に補助座布団、厚さが違う2種類がある。昔は気取った映画館は飲食禁止だったりしたように記憶しているが、そんなこともないし。そのような映画館をチェーン方式(でいいか?)で展開している。すごいですね。
 映画館で観る映画は「カンダハル」以来かな。
 とにかく刺激が強いな。テレビも日常ほとんど観ないから、すごい衝撃です。快適な空間で、まっくらで、体の感覚を忘れさせてくれる環境を設定する。目と耳がスクリーンに集中され意識だけの存在として映画に集中できる。
 映画館はバーチャル・リアリティ体験館になっていたのですね。
 ハリウッドで映画の文法が、マクドナルドのようにマニュアル化された。飽きさせないタイミングでストーリーの展開、音の挿入、光の使用・・etc
 意識は体のことを忘れて映画に没入できるようになっている。映画が復活したことはそこにあったのですね。って今更ながら感じました・・・。
■ 生と死-2
2007年03月17日 (土) 00:40 * 編集
薄い皮一枚隔ててお腹の中にいるのに、出てきたら誕生、この世に来たことになる。
無だったところに新たな命ができるのだ。
エイリアンは怖い映画だったが、エイリアンではなく同じ種の命は母の胎内で育まれていくのだ、ほ乳類の場合は。
胎内で赤子は生命の進化を自ら辿っていく。昔、タイのアナトミー・ミュージアム(解剖博物館)で標本を見たことがある。数週間ごとのリアルのホルマリン漬けだ。細胞分裂を繰り返し、成長していく。
ある時点から、細胞はどの器官になるか決まってしまうという。そこからは不可逆の旅。
魚類、両生類・・
人はネコザメが進化した生き物だという。えら呼吸から肺呼吸への進化の道筋をネコザメでみることができるという。西原克成さんが言っていた。 『内臓が生みだす心』
この本経由で、『記憶する心臓─ある心臓移植患者の手記』を読んだ。
心肺移植手術とは、心臓と肺を一緒に移植する手術のことである。体がごっそり空洞になる。
そんな手術が現実に可能で、それで生きながらえる人がいるのだということは、素人には凄い驚きである。
その手術を受けた人の手記である。

この手記は心がどこに由来するのかということに大きな視点を与えている。
心は脳によって作られているのか、そうではないのか。
脳の死が人の死として受け入れられている。脳死のことだ。
脳死と判定されれば人の死として臓器の提供が可能になった。その結果として心肺移植手術も行われたのだが、この手記は心は脳に由来するのではないという。肺や心臓という内臓腸管系にあるという。
脳の中の心という命題が反証されている。
ドナー(心肺の持ち主)の心が、移植先の心にその存在を訴える。
この手記が本当ならば、脳死が人の死と言えなくなる。
現在の医学界では認められていないみたいだが。

心は、意識は脳にあるのか、無いのか。
意識は脳にのみあるのではないと言っている。
心の傾向を肉体の気質によって分類する方法があるが、それはあながち間違っていないのかも。
意識の主が脳でない、脳のみでないことは、生きている実感上わかりやすい。
そのような言い方は科学ではないのだが。
「我思う。故に我あり」ではないということだ。(ほんとにそうか?)

考える私と、全人格的な私存在としての私は違う。
私とは、「考える私が思う私。」「他人から見た私(はこうだろうと考える私が思っている)私」
「他人から見た私」この三つがある、と誰かが言ってなかったか。
私は関係の中に存在して、私という固定した実体はない。それにも関わらず、関係の中で実体があるかのごとき「私」ができる。それは考える私が考えてもなかなか変わらないものだ。
心が頭にないと言うとき、それは非常に納得できる。

私は人の数だけある。私と私は違うのだ。
それが私とあなた、他人だ。

他の存在、他人が自らの肉体の中で大きくなっていくのだ、母は。
あらためてすごいぞ。
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